住民の「声なき声」を捉える:行動観察とインサイトで本質的な課題を特定するデザイン思考アプローチ
住民サービスの改善に取り組む際、私たちはしばしば住民からの直接的な要望や苦情を起点とします。しかし、それらの声だけでは、表面的な課題解決に留まり、本当に住民の生活の質を高めるサービスへと繋がらないことがあります。住民が言葉にしない「声なき声」や、無意識の行動の裏に隠された本質的なニーズを理解することが、真に住民中心のサービスを創出する鍵となります。
この課題に対し、デザイン思考は強力なアプローチを提供します。特に「共感(Empathize)」と「定義(Define)」のフェーズは、住民を深く理解し、本質的な課題を特定するために不可欠です。本記事では、デザイン思考における行動観察とインサイト(洞察)抽出を通じて、具体的な課題定義に至るプロセスを、自治体職員の皆様が実践できるよう詳細に解説します。
1. デザイン思考における「共感」と「定義」の重要性
住民サービスの改善において、なぜ「共感」と「定義」のフェーズが重要なのでしょうか。
- 共感(Empathize): 住民の視点に立ち、彼らの感情、動機、ニーズ、そして直面している困難を深く理解する段階です。表層的な情報だけでなく、行動観察やインタビューを通じて、彼らが普段意識していないような「声なき声」を拾い上げることを目指します。
- 定義(Define): 共感フェーズで得られた膨大な情報から、核となる課題や問題点を明確に言語化する段階です。この課題定義が曖昧であれば、その後のアイデア創出やプロトタイプ(試作品)の開発も的を射ないものとなり、結果として効果の薄いサービス改善に終わってしまいます。本質的な課題を正しく定義することが、効果的なサービス開発のスタートラインとなります。
表面的な要望の背景には、しばしば構造的な問題や、住民自身も気づいていない潜在的なニーズが隠されています。デザイン思考は、それらを掘り起こし、真に価値のあるサービスへと繋げるための羅針盤となるのです。
2. ステップ1:行動観察で「声なき声」を拾う
住民の「声なき声」を捉える最も効果的な手法の一つが「行動観察」です。アンケートやインタビューでは得られない、実際の利用状況やそこで生まれる葛藤、感情の動きなどを直接肌で感じることができます。
2.1. 何を、どのように観察するか
- 観察の対象: 特定のサービスを利用している住民、あるいは特定の場所(窓口、公園、図書館など)で過ごす住民の行動、表情、しぐさ、会話、利用しているモノや環境などを観察します。
- 観察の視点:
- 行動(What): 何をしているか、どのような手順で作業を進めているか。
- 理由(Why): なぜその行動をしているのか、その背景にある意図や目的は何か。
- 感情(How): 楽しそうか、困っているか、イライラしているか、どのような表情をしているか。
- 課題(Pain Points): どこでつまずいているか、不便を感じている点はないか。
- 工夫(Workarounds): 不便さを解消するために、住民が独自に行っている工夫はないか。
2.2. 行動観察の実践方法
- 観察計画の策定:
- 目的の明確化: 何を知りたいのか、どのような課題の仮説を持っているのかを明確にします。
- 対象者の選定: どのような住民層を観察するのか、具体的な場所や時間帯を定めます。
- 観察期間・頻度: 短期間で集中的に行うか、長期的に継続するかを決めます。
- 記録方法の準備: フィールドノート、写真、動画撮影の準備(事前に住民や関係者の許可を得ることが重要です)。
- フィールドワークの実施:
- 傍観者としての観察: 住民の行動に介入せず、客観的な視点で観察します。
- 五感をフル活用: 見るだけでなく、音、匂い、雰囲気なども記録します。
- 詳細な記録: 観察した事実(誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったか)を具体的に記述します。感情や推測は「(困っているように見える)」などと括弧書きで区別します。
- 写真・動画の活用: 住民の許可を得た上で、特定の行動や状況を記録し、後で振り返る際の客観的な証拠とします。
- 注意点:
- 先入観の排除: 「こうに違いない」という思い込みを持たず、目の前の事実をそのまま受け止める姿勢が重要です。
- 倫理的配慮: 住民のプライバシーを尊重し、観察や記録の際には必ず事前に許可を得る、あるいは個人が特定できない範囲で実施するなどの配慮が必要です。
自治体での実践事例(架空)
ある市では、高齢者が窓口で申請手続きに時間を要しているという課題に対し、行動観察を行いました。 職員が窓口の様子を数日間、一定時間帯で観察したところ、以下のような「声なき声」が発見されました。
- 申請書記入台に立つと、書類の文字が見えにくい、あるいは老眼鏡を忘れてきたため記入に苦労している。
- 記入台の高さが合わず、無理な体勢で記入している。
- 記入例を見ても専門用語が理解できず、何度も職員に確認しているが、混雑時に声をかけることをためらっている。
- 待合椅子に座って待つ間、不安そうな表情で周囲を見回している。
これらの観察事実は、「高齢者は手続きに時間がかかる」という表面的な問題の裏に、視力、身体的制約、専門用語への理解、待ち時間の不安といった具体的な要因が潜んでいることを示唆していました。
3. ステップ2:インサイトを抽出し、本質的な課題を言語化する
行動観察で得られた膨大な生データは、そのままでは具体的な解決策には繋がりません。次に、これらの情報から「インサイト」を抽出し、本質的な課題を明確に定義するステップに移ります。
3.1. インサイトとは何か
インサイト(Insight)とは、観察事実の背後にある、住民の隠れた動機、感情、ニーズ、または無意識の思考パターンなど、サービスの改善に繋がる本質的な「洞察」を指します。表面的な要望とは異なり、住民自身も気づいていないような深いレベルでの理解です。
例: * 観察事実: 「高齢者が窓口で何度も申請書を書き直している。」 * インサイトの例: 「高齢者は、自分が間違えることで周囲に迷惑をかけることを恐れており、確認の手間をかけたくないという心理がある。また、複雑な手続きに対する不安感を抱えている。」
3.2. インサイト抽出の手法
- データの整理と共有(アフィニティ図/KJ法):
- 観察で得られた事実や気づきを、付箋一枚に一つずつ具体的に書き出します。
- これらの付箋を壁やホワイトボードに貼り、似たような内容や共通点のあるものをグルーピングしていきます。
- グループごとにタイトルを付け、それぞれのグループが何を意味するのかを議論し、大きなテーマとしてまとめます。
- このプロセスを通じて、個別の事実から共通のパターンや傾向が浮かび上がってきます。
- ペルソナ作成:
- 観察データに基づき、典型的な住民像を具体的に設定します。年齢、性別、職業、家族構成、性格、趣味、価値観、そしてサービス利用時の課題や目的などを詳細に記述します。
- 「〇〇市の高齢者」という漠然とした対象ではなく、「花子さん(72歳、一人暮らし、週に一度ゲートボール、スマホは持っているが操作に不安)」のように、あたかも実在する人物のように描写することで、具体的な住民のニーズや感情を深く理解できます。
- ジャーニーマップ作成:
- 特定のサービスを利用する住民が、どのようなプロセスを辿り、その各段階でどのような行動を取り、何を考え、何を感じているのかを時系列で可視化します。
- サービス利用前(情報収集)、利用中(手続き)、利用後(結果)など、一連の流れの中で、どこでつまずき(Pain Points)、どこで喜びを感じるのか(Gain Points)を具体的に描き出します。
3.3. 本質的な課題の言語化(POV)
インサイトが抽出できたら、次にそれらを用いて本質的な課題を言語化します。デザイン思考では、「POV(Point Of View)」というフレームワークがよく用いられます。
[ユーザー]は、[ニーズ]である。なぜなら、[インサイト]だからだ。
この形式に当てはめて、課題を具体的に表現します。
自治体での事例(再掲)
先の高齢者の窓口利用の事例から、インサイトと課題を定義してみましょう。
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観察事実のグループ化(例):
- 「文字が見えにくい」「記入台が合わない」 → 身体的制約
- 「専門用語が理解できない」「混雑時に声をかけられない」 → 情報理解と心理的ハードル
- 「何度も書き直す」「不安そうな表情」 → 手続きに対する不安と完璧主義
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インサイトの抽出:
- 「高齢者は、身体的な負担や周囲への遠慮から、窓口での手続きにおいて助けを求めにくい。また、間違いなく完璧に手続きを終えたいという強い動機があり、それが手続きをより困難にしている。」
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本質的な課題(POV形式): 「高齢者は、安心して、スムーズに手続きを完了したいと望んでいる。なぜなら、身体的な制約や専門知識の不足、周囲への遠慮から、間違いを恐れ、誰にも頼れずに不便を感じているからだ。」
このように課題を定義することで、「単に窓口を増やす」「記入例を大きくする」といった表面的な対策だけでなく、「職員が積極的に声かけしやすい環境を作る」「専門用語を使わない簡易版の案内を作成する」「自宅で記入できるような工夫を凝らす」など、より本質的な解決策へとアイデアが広がっていく可能性が生まれます。
4. 自治体で実践する際の現実的な壁と乗り越え方
デザイン思考の導入には、自治体特有の課題が伴うこともあります。
- 時間・人員の制約: 日々の定型業務に追われる中で、観察や分析に時間を割くのは容易ではありません。
- 乗り越え方: まずは小規模な対象(特定の窓口、特定のサービス)に絞り、「1日30分だけ」といった形で時間を決めて実践することから始めます。庁内の有志を募り、チームで取り組むことで負担を分散することも有効です。
- 住民の協力: 観察やインタビューには住民の協力が不可欠です。
- 乗り越え方: 目的を丁寧に説明し、プライバシー保護を徹底することを約束します。住民が関心を持つようなメリット(「より良いサービスを作るため」)を伝え、理解と協力を求めます。
- 組織内の理解: デザイン思考がまだ一般的でない組織では、その価値が理解されにくい場合があります。
- 乗り越え方: 成功事例を共有し、小さな成果を庁内で積極的に発信します。具体的な課題定義のプロセスと、そこから生まれた新しい視点を共有することで、段階的に理解を深めてもらうことが重要です。
5. まとめと実践への示唆
住民中心のサービス改善は、住民の「声なき声」を深く理解し、その裏にある本質的な課題を明確に定義することから始まります。行動観察とインサイト抽出は、表面的なニーズに囚われず、真に住民の心に寄り添うサービスを創造するための強力なツールです。
今日からできる一歩として、まずは自分の担当する業務に関連する場所で、短時間でも構いませんので「行動観察」を始めてみてはいかがでしょうか。住民の何気ない行動や表情から、これまで見えなかった新たな発見があるかもしれません。そして、その発見を同僚と共有し、共にインサイトを深掘りしていくことで、あなたの部署から住民の生活を豊かにする新しいサービスが生まれる可能性を秘めています。
デザイン思考は、特別なスキルを持つ一部の職員だけのものではありません。日々の業務の中で住民と向き合う皆さんの「共感」の心が、何よりも強力な原動力となるでしょう。